秋茄子は嫁に食わすな

 

私は茄子が嫌いだ。

こういうと、誰もが驚く。今まで驚かれなかったことはないし、世間の皆さまがその魅力をとくと語ることができる美味についてそう断言することは非常に申し訳ない気分になるのだが、

申し訳ない。嫌い。

この、茄子嫌いについては、私の亡くなった父親もそうでした。

私自身は、生まれながらに嫌いだったわけではなく、忘れもしない小学校三年生の頃の学校給食でどうにもならない茄子料理を口にしたことで、その性質が生まれ出た、と思っているのですが、

母(こちらはまだ生きている)は、後天的に表れた遺伝を感じているらしい。

 

ちなみに、今まで食べることが(しかもとても美味しく!)できた茄子料理は、以前鎌倉の駅前にあったフレンチで出てきた野菜のソテーとしての茄子と、唯一通う和食屋さんの茄子の煮びたし。

あと、お漬物としての茄子はむしろ好物です。

 

更に言及すると、秋刀魚も食べられない。

 

こんなふうにしていることで、人々に憐みの目を向けられる私なのですが、つい先日とても楽しい「茄子と私」とでも題したいような出来事があったのでお知らせします。

 

このところ、恩師にお会いする機会が続いていて、先日の東京文化会館の数日後は桐朋学園で、そしてそのあと個人的にレッスンでご指導頂きました。

そのレッスンがとても有意義で、先生の門下の末席に加えて頂いていることがとても幸福で、自分のヴァイオリン人生はなんと幸福に満ちていることか、と思うものだったのです。

 

で、そのレッスンに行く前に、知人にそのことを話したら

「以前、茄子が食べられるくらい楽しかった、とおっしゃってましたよ。」

「!?」

なんでも、以前恩師のレッスンのあとにどこだかで茄子が入っているパスタを食べて、その茄子をぺろりと平らげたくらいレッスンが楽しかった!と話していたのだそうだ。

なんてことだ。

 

その話を聞いたときには我ながら随分驚いたのですが(忘れていたし)、

でも、今回もその楽しさと言ったら、焼き茄子(最も苦手)でもいきそうなくらい。いやぁ、洋々たる我がヴァイオリン人生、秋刀魚はともかく茄子ならちょっとだけなら持ってこい!と言わんばかりの喜びなのでした。

 

ちなみに、茄子っぽいものを家で探したら、知人の打楽器奏者が作ってくれた瓢箪の打楽器があったので、被写体はそれで代用してみた。我ながら、あまり似ていないし、そばにあったクラシックギターが色も瓢箪と似ていて、眺めているとその音色や音楽で頭はいっぱいになってしまい、茄子の話を考えているのに茄子のことは忘れてしまう。

自分の人生に茄子を探すことは難しい、と改めて気が付いた次第なのでした。

皆さまの秋に幸あらんことを。