このところ生きる速度が加速しているようで、一週間前の悩みはもう覚えていないし私の中にない。

この数日のことを整理すると、凄まじい肉体的疲労感を感じていたのだが、それは恐らく肉体にではなく脳にあるのではないかと気がつき、今まで以上に脳の休息を図るための方策をいろいろと打ち出して実践してはいたものの、なかなか回復が見られなかった。そんな中今朝の明け方にふと目が覚めてしまい、数日前にも同じようなことがあったから非常に狼狽しなんとかこの危機を打開したいとiPadで調べてふと思い当たったのが、これは恐らく鬱病なのだ、ということ。なるほど、確かにそれまでできていたことができなくなるという。私の場合、数時間は軽く練習していたのにヴァイオリンを1時間弾くだけで疲労困憊してしまいあとはひたすら寝ているか横になるか、どちらも似たような状況だがまぁつまり何もできやしないってことだ。このままいったら確実にこの状態は悪化する、それに自分が壊れていくのをこの目で実況しながら感じていくのは怖いことだ。なぜ生きながらに壊れないといけないのか、それではこの原因を改善せねば、そうでないとこの先はない。

原因なんて明らかで、要するにこの春親元に緊急避難したこの地がたいそう遠いのである。関東平野ですか?と尋ねるYu-co associates氏のその表現に愉しさを感じてしまってそれ以来人には「かろうじて関東平野ではあるのですが」と伝えている。往復5時間ですからね。そうでなくても元来見ず知らずの方々と密に接するなど非常に苦痛で電車には絶対乗りたくないから基本的に歩いて移動することが多く秋葉原から神保町とか渋谷から広尾とか虎ノ門から赤坂なんてへっちゃらで一度失敗したのは虎ノ門から田町である。でも田町から麻布十番には平気でいく。あの、三井俱楽部のそばを通っていくのが良いんだよね。一度あそこで弾いたことある。あの庭園は見事だ。こんなの全部楽器持ってうろうろするからね、電車に乗るくらいなら歩くかタクシー。特急とか新幹線の指定席なら乗っても良い。そのくらいの神経なのである。

 

で、その私が電車に乗る?

 

そりゃ具合も悪くなって当然であろう。

 

でさ、これは私、親の庇護の元にある状態でそんなこと言ってるんですよ。許されると思う??こんな不平を言うことが!だから流石に親にはまだ言っていない。「お母様、私はこの遠距離に堪えられず鬱病になってしまいそう、だから資金調達して一刻も早くここを出るから」えぇ、はい資金調達のためのいろいろは只今急速なスピードをもって進めております。ちなみに、親の呼称はこの記述通りです。そんな私は家族からは「えっちゃん」と呼ばれている。姪っ子○○えちゃんも田中家の女どもの一員として私のことをそう呼んでおります。我が家のルールからいけば本来彼女は私のことを「幾子お姉様」と呼ぶべきではあるのだが面倒くさいからそのままにしてある。それに、「えっちゃん」と呼ぶ人はこの世に3名しかいないわけだ。亡くなった父親は決してそのように愛称で呼ぶことはなかった。あの人は家の中でもワイシャツとジャケットだったからな。愛称などというものは彼にしたら無視すべき存在だったのだろう。

 

話しを元に戻すと、

 

このように身勝手で自分勝手、でありながらそれに従って生きなければ生きていけない己というものは正に真正人間のクズである。こう思い知ったので、自分はクズであるという自覚を持って生きることにしたし、それは今朝の睡眠障害以降私の肩の荷をずいぶん降ろしてくれた。午後になって少し前向きな気分になれたから家からすぐの岸辺周辺の公園で日に当たりながらぼんやりしているとくだんのYu-co associates氏から次のライブのためのlineがきて、そのやり取りはたいそう愉しく幸せを感じるものでそれは正に彼女が私のクズぶりをそのまま受け入れてくれているからであるのだろうし、そのあとは更に気分が良くなって少し散歩したり木の葉のぎりぎりをわざわざくぐったり膝丈スカートなのに手すりを足でまたいだりなどしてお行儀の悪さをいかんなく発揮し子どものような行いに自然と笑みを覚え、そういえば今朝以来笑っていなかったな、などと思ったりしたのだ。人にはいつも笑っていると評されているから朝から一度も笑っていない自分というのは非常に危険な状態だったんだな、と改めて感じた次第である。

この公園では昨日、私が11/11のユア・オーケストラ公演で弾くシューベルトは川の水面のきらきらやその中にいられると初めて生きた心地になる風、そして私がこの地上で最も愛する音とも言える風が奏でる木々の音、木の葉が返す太陽の光への返事、そういったものから構成されているのに何故に私はそこの中にはいられないのだろうか、バレリーナも練習は基本室内だ、精霊の役になったりするのに室内だ、これは芸術家の宿命だからしょうがない、だが我々こそ自然と技とを両立させないといけない存在なのだ、と感じたし、しばらく絵を描いたあと柿本人麻呂のようにかえりみすれば太陽が傾く時刻でそれにはチャイコフスキーの交響曲第6番第1楽章のあのメロディ、人生の終わりにたどり着いた湖畔の向こうに輝く壮大な夕暮れかのようなあのメロディを久々に思い出して、あぁあのような曲を書きたいな、と思ったり。はたまた志賀直哉の主人公のように長い保養地での生活の中で生気がみなぎってきたくだりを「確かに、そうだな」と思えたり、私の悪い性で早速仕事のことを考え始めたら急に段々と身体が重くなってきて、このへんも読んだことがあるから本当に「確かに、そうだな」と無理は禁物だと思い知ったりしたのだった。

 

そうして少し自分の在り方について気がついた今日は仕事もできたし練習も少しした。良かった。

 

ここにきて、改めて自分がクズであると確信している事柄があるので一つだけお伝えしてこの日記をおしまいとしよう。

 

それは、この部屋。私の仕事部屋にしている部屋の匂いだ。

 

前々から、なんか変な匂いがするなと思っていた。ここは中古物件であるから多少は致し方ないと。

 

だが、先ほどの公園での幸せだった愛情から帰ってくると、本当に耐えられないような厭な匂いであるのだ。

 

うん、出るしかない。

 

自分が正常を取り戻そうとすることで、そのようなことまで気になってしまって仕方がなく嫌な気分を我慢しながら音楽をより良くするための練習をしていたのだ。この一連の流れをクズだと言わず、なにをそう呼ぼう?

写真は、昨日絵を描いていたときのスケッチブックと虫。そんな、今日でした。