少し前の日記で、志賀直哉の文章のことを書いた。
実のところ、最近の私における目下の課題は創作行為であって、それは小説「雨女」と付随音楽。つまり、作文と作曲の両方なのだ。
練習で疲れてしまいがちで、なかなか創作が進みにくいのであるが、これでも日々の課題として少しずつ筆を進めてはいる。主に移動中に書いているのだ。
自分で小説なるものを書いてみようと思ってから、昔読んだ作品たちをいくつか引っ張り出して開いたりしていると、当然のことだが以前とは読後感が全く違う。感じる違いは2点あって、
一つは、経年により自分自身が変わっている。
もう一つは、自分自身も作文を始めたから文章の捉え方、読み方自体が変わっている。
こんなところである。
そのような変化があったから、小説の神様と呼ばれる志賀直哉の作品を今読むとたいへん興味深く、非常に面白く感じていて、それは以前の私にはなかった感覚だから驚いている。
それで、自分における音楽の在り方を考察してみると、実は私は音楽においては、最初の印象というものがまるで変らない。カトリック幼稚園に通っていたときのクリスマス会で歌ったある讃美歌が今も同じように好きで、あのときの高揚感を今でも感じるし、讃美歌の中ではそれが一番好きだ。
あの頃は、なぜ自分がこのように高揚感を感じるのかが不思議だった。
音楽大学に進み、他の様々な作品を聴いたりスコアを開いたり分析して勉強するようになって、昔の自分の疑問の答えが見つかるようになった。結局のところ、私がやっている音楽活動は、子どもの自分に応えるようなものだと思う。
では、文章はどうなのか。
自分の感じ方としては、音楽より書物に触れている時間のほうが総計すると長く感じるし、たくさんの書物からなにかをもらってきて今に至るはずなのだが、文章においては分析しながら読んだことがなかったのかもしれない。そして、それは音楽においては、実は子どものころから拙い知識ながらも自然と繰り広げていたことなので、これから行えばいいのだが。
文章もこよなく愛する自分としては、音楽と文章とで接し方が違っていたこれまでの人生に驚いたのです。
このようにして、自分の在り方について考えることから創作は始まると思っている節があるので、そういった意味では私の作文はこれからである。楽しみだ。
※ポップスの共演は、創作に近い。