2018.12.10 読む辞書、弾く辞書

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読み物としての辞書

 

凡そ、子供の頃から活字としての日本語中毒症状を発揮しているのですが、幼い頃から変わらず好きな書物といえば、所謂辞書。

国語辞典か漢和辞典が最も好み。

先日も、人と話していて、いかに読み物として漢和辞典が楽しいか説明しようと、手元にあった漢和辞典を適当にめくってみると、たまたま「悪衣(あくい)」という言葉があった。
その意味は、みすぼらしい衣服、といったことらしい。
悪意がなくても身なりによっては悪衣を纏っている、と言われてしまう可能性だってあるわけであり、その言葉をどういったふうに使うだろうか、などとイメージを膨らませていると実に楽しい。
それで、その場も「こんな言葉があるんですねぇ。」と和やかにその楽しさを伝えられたつもりである。

 

そんなわけで、そこにある知識が身についているかどうかは置いておき、

私は読み物として辞書が好きなのです。

 

辞書の魅力を一言で語ると、膨大な知識がそこにある、ということだろうか。

その膨大な知識、また、それを編纂されたことに対して敬服、そして感服しかない。
要するに楽しくて仕方がないひと時なのですが、

それをヴァイオリン的に言うと、ヴァイオリンの辞書は「セヴィシック」と言えるだろう、というのが幼少からの持論であります。

これは、私が小学校のときに最初に買ってもらったセヴィシックのOp1-1の中の1ページ。このセヴィシックというのは、19世紀から20世紀にかけて活躍したヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師であった人の名前です。
その名を冠した優れた教本を多数残したため、現在ではヴァイオリン教本の呼び名のように知られているわけですが、これだけ優れた内容の教本を残せたことがすごい。
その膨大な練習法、まるで辞書のようである。

というのは、辞書と同じく、いろんな楽しみ方があるわけで、

該当する箇所を取り出してさらう(調べる)でも良い、もちろん、ページの頭から通して弾くのもためになる(読み物のように辞書のページを繰るようだ)、ありとあらゆる練習法が記載されているため手当たり次第に試してみる(上述のように、適当に辞書を開いてみる)、などなど。
そりゃあ豊かな世界があるわけです。

今宵のように、底冷えするような深い夜。

そんな夜に、このセヴィシックと、演奏会で披露する曲の練習との無限ループ、この楽しいこと。
私が他に愛する無限ループは、ワインとチーズなのだが、セヴィシックと曲の場合は、それによりヴァイオリンの演奏が上達するという特典付きなのです。
ワインとチーズの場合は、無上の幸せがあるわけだが、これをすぐさま上達につなげられることは余程の感性の持ち主でも困難であることは皆様お分かり頂けるだろうことと思う。(ただそこには、何物にも代えがたい幸せがあることもれっきとした事実である。)

 

それにしても、このように素晴らしい本を残してくれたセヴィシックには、ただただ敬意しかない。
楽しいよ、ありがとう。

 

ちなみに、個人的には辞典類を総称して「辞書」と呼び、各々については「~辞典」と呼び区別しています。
それでも良いのかどうか、あとで調べてみましょう。

もしかしたら、これも調べがいがあるのかもしれません。

 

この、己の知識不足を感じるときと、知識欲を満たすとき。
この無限ループの幸せたるや。

私の幸せは、そんなところにもあったのでした。

 

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