ブラームス

『細』 2021.1122

ご存知のように、私はつい先日まで「ユア・オーケストラ」にかかっていた。

まぁ大変でしたし、まだ処理があってクロージングできていないんだが、でも今後への展開も望めそうな気配がしてきているし、これがこんなにも世の中において喜ばれる企画であるならがんばって続けようと思う次第であります。

 

具体的にはさ、オケのスコアを見ながら弾いて勉強するのだが、その弾く前にマーカーでいろいろ印つけるんだよ。このメロディラインがチェロから木管楽器に移り変わるだとかさ、ここのリズムは目立ちにくいけど絶対重要、これ聴こえないと演奏が崩壊する、とかさ、ここの合図の出し方難しいからこれだけはリハで要確認とか、このメロディを全パートTutti(トゥッティというクラシック音楽用語で、ソロに対して全員という意味合いです)だとその合図がすごく難しい、どうやって決めるか、とか。そう、Tuttiでメロディって結構怖い。特にメロディアスだと音符を長く伸ばすような瞬間でずれやすいんだよ。そういうことを私はよく知っているんだよ。あとユアオケの人たちはみんな超絶上手くて腕に覚えがあるような猛者揃いだからそのへんも共通認識なんだよ。その時に私がどういう合図を出すかで全てが決まるんだよ。

私は今までオケのコンマスをやったことは実はなくて、なんで今回その任務を引き受けることにしたかっていうと、昔のウィーンフィルで最年少かな、そのコンサートマスターを務めたシモン・ゴールドベルクっていう凄腕のヴァイオリニストがいてさ、その方は晩年に日本人ピアニストと結婚なさったからコンマス時代のことなんかを連載記事で暗記するほど読んだからなんだよ。ナチス政権下でユダヤ系だった彼は大変な目に遭ったが戦後しばらく休養期間を経て今度はソリストとしてカムバックした、という方なのだが、その方が

 

ジャワ島のユダヤ人収容所で

唯一、私物の持ち込みを許されて

それがストラディヴァリウスで

強制労働はわりと簡単なもの

で、

 

いつまで続くかも分からない気が狂った政権下で人達も気が狂いそう、そんな中その収容所では非公式にコンサートが許された。

彼は、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の総譜を全て暗譜しており、わずかな紙切れや木の葉まで使って残り少ないインクのペンで書き記し、同じように捕まったユダヤ人音楽家たち(アマチュアもいたようだ)と演奏をした、と。

 

それは本来ならば決して許される行為ではなかったのだが、精神を保つためには将校たちにも必要な出来事であって、彼らも木陰からこっそり覗いて聴いていたらしい……。(この時代の政権と芸術の戦いは、本当に心にグサグサくるし、ウィーンの街でも毎晩非公式に人種関係ないコンサートが開かれ人々はそこに半狂乱的に集ったらしい。だって友人や家族がゲシュタポに連れていかれる世界だ、誰がまともでいられる?コンサートはほとんどボランティアだったらしいけど、弾くほうも聴くほうもそんなこと関係なかったらしい。私はこの時代のことを思うとこのエピソードが全てセットで思い起こされるからかいつまんでお話しすることはできないし、これがあるから例のアフガニスタンの女性音楽家たちが虐殺されそうな今は胸が張り裂けそうな思いになる……ちなみに彼女たちの半数ほどが出国できたそうです。)

 

だから、自分にとってはオーケストラをやるというのは、このシモン・ゴールドベルクのようにスコアをまず頭に入れて、というところがスタートなんだな、と思っていた。

 

で、私は彼のようには素晴らしくないから自分のパート以外は完璧な暗譜はできないし「頭に入れている」というような表現でしかないのだが、それでも頭に入れてはいるんだ。それは、彼の人生から学んだことだから。

 

そして、今思っていることは、

今までいろんな音楽を経験してきたけれども、

しばらくは自分の仕事を細く集中させていきたい、ということ。

 

先日ヴィヴァルディのソロを弾きながらつくづく思ったのは、ソロというのはオケと違い自分の音にすごく細くそこだけに徹底して向かっていないとすぐ崩れそうになる、この細い集中力は、蜘蛛の糸のようなふわふわしたものじゃなくて、どちらかというと強靭なピアノ線。そのくらい細い精神を保つのでなければ、これは弾けないのだ。

で、私はこの細い精神でオケのコンサートマスターをやりたい。そうしたら、くだんの彼ほどまでではなくても少しはもうちょっとこのオケのために何かできるのかもしれないから。

 

「一般の方でも指揮者になれるオーケストラ」をやるって、そのくらい大変なことですよ。一人の人間の生き方を変えさせるくらいね。

写真は、その際のリハ。頼れるヴィオラの米納(よのうさん、という素敵で呼びやすいお名前なの)ちゃんが選んでくれた一枚。加工前。

 

そんな、今日でした。

『匂』 2019.0912

今日は、久しぶりに山に行った。

例の里山歩きである。

およそ、一週間ぶりであろうか。先週末の台風を経て、山の様子はそれまでとは変わっていた。

 

が、自然とは恐るべきもので

台風を逃れた蝉は鳴き、スズメバチは頻出する。

 

スズメバチ。初めて見たな。もう二度と見たくない。

 

なのだが、それでもなんとか歩いてきた。帰り道は、スズメバチの恐怖からか言葉が出なかったほどだ。

そして、帰宅すると、

 

あぁ~、ずいぶんとリフレッシュしたなぁ。やはり、都会の建設物の中に閉じこもっていると駄目だ、現代を生きる芸術家にはリスクを負ってでも大自然が必要だよ、などと独り言にするほどの余裕ぶりであった。気持良かったんだよね、山の風が。

 

そう、急に風が変わってきたよ。風の音、風の匂い。

 

この匂いに、私は毎年やられる。

 

もう、ブルックナー、ワーグナー、チャイコフスキー、マーラー。加えてシベリウスの音まで聴こえてきたら、もうおしまいだ、生きてこの現実世界には帰ってこれないような心地でいっぱい、ここまで来たら、ブラームスは室内楽でだってヤバイし、モーツァルトのピアノ曲で死んでしまう。

 

ここまで積み上げてきたものなど全てどこかに消え去ってしまう。

 

秋の匂いよ、お前は強い。

 

写真は、お気に入りの鍋の焦げを落とすために近隣店舗を駆け回り入手した一品。粉クレンザー。

そんな、今日でした。

2019年の集大成!11月24日「かっこいい曲しかやらない」ヴァイオリン・ピアノデュオ『美会夜会』 原宿カーサ・モーツァルトにて。

 

オールパガニーニシリーズ 10月22日『パガニーニ・ミーティングス vol.3』

 

『色』 2019.0713

ご承知の通り、私は変わった人間なので、生きている男性に色気を感じることはあまりない。

が、ピアノ作品なんかにとてつもない色気を感じる。

 

弦楽器より管楽器より、断然ピアノ曲は、時として凄まじい色気を発する。私には。

 

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第3楽章。オケと同じ動きのピアノは断然色っぽい。

グリーグのピアノもそうだ。ヴァイオリンソナタのピアノパートの色っぽいこと!ブラームスのピアノ協奏曲もすごいな。あまりの艶っぽさに息が止まりそうになってしまう。あんなことを目の前でされたら、どうなってしまうのだろう。放心してしまうかもしれない。もしかしたら、男性的な音楽に特にそう感じているのかもしれない。

 

生きている人間で言うと、落ち着きのある女性にはとても色気を感じます。男性については、あまりわからない。ただでも、好きな作曲家は男ばっかなのは確かだ。

今日は一日引きこもって曲を作ったり勉強したりしていたので、普段よりピアノに触れる時間が長かった。パガニーニは、音楽的な内容とテクニックのバランスを取ると面白いプログラムになりそうだ、と練習しながら思った。

 

写真は、母のおさがりのコーヒーミル。重いんですよ。それがいいの。

そんな、今日でした。

ソロコンサートシリーズ 新曲お披露目したい。『青の時代 vol.4』

オールパガニーニプログラムシリーズ『パガニーニ・ミーティングス vol.2』

『譜』 2019.0515

恐らく私は書物と同じように、楽譜を見ることも好きなのだと思う。

だからこの日記にも写真を載せたくなるのかな。

 

例えば、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の1楽章、ソロのパート譜でいえば2ページめにあたるところにあるようなアルペジオは見ているだけで感動してくる。なんて美しいものを書き残したのだろう、と譜面そのものに立ち昇る美しさを見ているわけだ。

そこで言えば、バッハの無伴奏の譜面はまるで漢文のように見える。それも、白文。これを書き下し文にすることがバッハの演奏だと思っていて、その作業が終わるまではそもそも練習にも取り掛かることができないような作品群である。

 

で、見ていて圧倒されるのは例えば、ピアニストな作曲家の作品。シューマンやブラームスのピアノのアルペジオには、ヴァイオリンには出せないある種の色気を感じるのだ。(※ドビュッシーやラヴェル、フォーレなど、いわゆるフランスもののピアノは残念なことに私には譜面からは容易に音楽の想像がつかない。)

 

ピアノは、とても好きな楽器だが、

ピアノがもつ透明な音色であの音列をやるから、

 

ものすごく色っぽく感じるのかな。。

 

そんなの、私だけかな。

 

答えが出ない、でもずっと探している。ちっちゃいときからずっと。

 

 

写真は、こないだとみーのところに行った途中の渋谷マークシティ。久しぶりだなぁと思ったらLa.mama に行くのと同じルートだったからで、La.mama には3月以来出演していないからだった。

そういえば、今年は La.mama から始まったもんな、と自分の記憶の理由を思い出す。

 

そんな、今日でした。

ソロコンサート 2019 0707「青の時代 vol 3」

 

『耐』 2019.0410

FacebookとTwitterで私のタイムラインをご覧頂ければ明らかなことだが、

本日の私は兎女になっていた。

 

で、それは本日の議題ではありません。全く無関係であります。

 

今日は、私は移動中にブラームスのピアノ協奏曲第2番を聴いていた。あまりに凄い曲。これは、ピアノのための作品というより、クララ・シューマンが言ったように正にオーケストラ作品だと思うのですが、ブラームスのオケの作品の中では、これが一番好き。

 

凄まじいくらいに凄い。

その凄さに、圧倒される。圧倒されながら、その威力を味わう。これでもか、と押し寄せてくる力。なんて偉大なんだ、そうとしか感想が出てこない。凄いものを前に、それ以上のものが出てくるだろうか。私は、その時間とても耐えていた。誤解を恐れずに書くと「その圧倒的な威力は暴力的なほど」だ。

 

今日の京浜東北線内で、辛そうな顔で聴き入っている女がいたら、たぶんそれ私でした。

 

で、今日は雨だから、晴れの日のお出かけ写真。花粉症でマスクしていた跡がまるでシワのようです。

そんな、今日でした。

ソロコンサートのお知らせ 2019.0505 「青の時代」 Vol.2

『黒』 2019.0329

そういえば、私の初ソロコンサート(厳密には初めてではないのですが、ピアノと歌もお披露目したのは初めて)はまだ数週間前のことだったんだな、と月日の流れにびっくりしている。

その翌週に、阿佐ヶ谷ヴィオロンでバッハの無伴奏パルティータ第3番全曲弾いたからかな。合間に曲を書き、動画を撮り、今週は秘密の特訓といい、びっくり箱のような人生である。もう、あれから1か月以上は経っているような感覚だよ。

そうして、明後日は今年からお世話になっている渋谷 La.mama でオープニングアクト出演です。

そのあとは、4月14日に渋谷松濤ムジカチェレステでクラシックの室内楽、24日に原宿カーサ・モーツァルトで日本の和を歌でお届けする「和美 ~wabi~」にも出演が決まっておりまして、

大層、ありがたいことです。

 

それぞれ、内容も雰囲気も違うのですが、

頭の片隅に、それらの曲や内容、背景をイメージしながら、練習は目の前のものをメインにやる。

今のところ、私はそんなふうにして挑んでいる。

 

ムジカチェレステで演奏するベートーヴェンも、やはりベートーヴェンらしい大きさがあるし、その響きを想像すると、リハーサルでの音出しが楽しみで仕方ないんだよなぁ。やはり、私はクラシックのアンサンブルが大好きなんだ。

ベートーヴェンといえば、実は最近ひっそりと彼のピアノソナタを部分的に練習している。単純に、弾いていれば音楽が身体の中に入るから。これは決して人前にはお見せできない部類の研究のようなものなのですが、こんなふうにして、ブラームス、ラヴェルも少しだけでいいから、ピアノを通して身体に欲しい。

ヴァイオリン的目線とは全く違う、じわじわ入ってくる感じがまた、この世にこれ以上面白いことがあるかよ、という気分になってくるのです。

 

とまぁ、本日も特訓後にはまるで朽ち果てる女であり現在も疲労進行形であるゆえ、もう、とっとと寝てしまえ、という気分の今現在でございます。

写真は、練習に必要な三種の神器の一つとでも呼びたい、バランスボールでありますが、いくぶん写真が生々しかったゆえに、モノクロへと加工を施してみました。正に、欺瞞に満ちている。

 

そんな、今日でした。

ソロコンサートのお知らせ 2019.0505 「青の時代」 Vol.2

『濡』 2019.0227

首都圏は、今宵は雨ですね。

私は雨の国、佐賀県で生まれ育ったから、わりと雨には強い。
(でも濡れるのは嫌。)

それはそうと、
ブラームスのヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」は、名曲です。
これを思うときは、こんないい曲ない、と思う。
(そうしてすぐ他の作品に浮気する。)
良かったらお聴きになってね。

私はシェリングとルービンシュタインのデュオが好きです。

 

そんな、今日でした。

私の雨の曲も披露するよ→2019.0310 出演「青の時代」